02月22日(金)
1年ぶりの南三陸町ボランティア(1) 椿の道
2月中旬、1年ぶりにNPO法人バタフライエフェクト主催の漁業支援ボランティアツアーに参加しました。仕事が閑散期ということと、あれからどんな変化が南三陸に起こっているのかをこの目で見たくて。メンバーは15名、昨年の同時期よりも減っていて、やはり関心が薄れてきているのかも。8割程度がリピーターです。前回ご一緒してお友達になった、Yさんは5回目の参加!
昨年もブログに書きましたが、このツアーでは、ボランティア作業だけでなく、被災した方のお話を伺うことができます。今回最初に訪問したのは、南三陸町の山側の隣町、登米市(とめ)の仮設住宅集会所。主に高齢のお母さんがたが、集まって復興グッズなどを作っています。この日は魚の鰈の形の、フェルトのコースターに刺繍をしていらっしゃいました。切り紙細工などもやっているそうです。

その横にお邪魔させて頂き、お話を伺います。「南三陸に帰ってもどうせ一人だし、このまま仮設の暮らしのほうが、スーパーも近くて、雪かきも玄関先だけで済んで、楽なの。」「お父さんは、波に持っていかれたの。」身内の方を亡くされた方から直接お話を聞くのは初めてだったのもあり、言葉に詰まってしまい、曖昧な反応になってしまいました。
皆さんと、郷土のおやつでお茶を頂いたあとは、南三陸の上山八幡宮の禰宜(宮司さんの補助役)を務める工藤真弓さんからもお話を伺う事ができました。工藤さんは、五行歌詩人でもあり、南三陸町のベイサイドアリーナにも、被災直後に書いた詩が飾られています。
工藤さんは復興まちづくり推進員もなさっていて、復興の状況についても話をしてくれました。既に高台移転を前提に復興の計画が進んでいますが、高齢の方に街づくりに対する関心やモチベーションを維持してもらう事の難しさを感じているそうです。
そんな中、津波に遭っても根が横に生えているので抜けにくく、塩害に強い椿のことをあるお年寄りが語ってくれて、町に戻ってみると、確かに自生している椿は波をかぶっていても震災の年も芽を出し、花をつけていた由。後世の人に伝えるために、津波が到達したところに椿を植えて、避難路を示すのはどうか?という計画が進み始めています。その際に、仮設住宅の高齢者の方にも、どこに椿を植えたらいいか、模型にピンを刺してもらうワークショップなどを行い、街づくりの疑似体験を通じて自分ごととして捉えてもらえるような試みをしているとのこと。
ちなみに椿は、長崎の五島が有名で、苗木などはその地の方々の協力を得られる予定だそうです。具体化したら、私も是非苗木をプレゼントしたいなぁ。椿の道が命を救う道になるんですものね。
工藤さん一家は皆さんご無事だったのですが、お宅は津波で流されはしなかったものの、家に、津波で流された他の家が突っ込んで、住めなくなったそうです。工藤さんには、ゆうすけ君という男の子がいて、被災後の日々の中で、子供の視点で被災をどう捉えていたかを話して下さったのですが、ハッとする言葉が幾つもありました。
例えば、家を取り壊した時、工藤さんが「瓦礫になっちゃったね」と言うと、「瓦礫って言わないで!ゆうすけのおうちって言って!」と叫んだり、南三陸町に車で入った時に、「壊れちゃったけど、あるよね、僕のふるさと」とポツリと言葉が出てきたり。
工藤さんはそう言われて、「ああ、そうだ。ここには海も山も空も変わらずにある。大人は目の前に見えるものに支配されて全て失った、と思ってしまうけれど、子供は本質を見ている」と感じた由。震災の体験や、ゆうすけ君の言葉を紡いだ紙芝居を最後にしてくれました。これは、絵本にもなっています。
子供を家に残して買い物に出た先で地震に見舞われ、ドキドキしながら急いで帰宅して高台に避難した当日の様子や、自宅に戻った時の光景などが、優しいタッチの絵と五行歌を中心とした詩句で綴られています。涙は出るんだけど、希望も感じる内容です。
「震災がなければ出会うことはなかったかもしれない人と出会っている。皆さんもそうです。」という工藤さんの言葉。そうですね、確かに、震災がなかったら、南三陸町に来ることはなかったかもしれないし、仮に観光旅行で来たとしても、こういう形で出会うことは考えにくい。しかも1年の間に南三陸町に2度来ることはなかったかもしれない。これも縁なんですよね。
震災は多くのものを奪ったけれど、別の形で与えられたものもある。なんだか不思議な気持ちを抱えながら南三陸町の宿に向かいました。
昨年もブログに書きましたが、このツアーでは、ボランティア作業だけでなく、被災した方のお話を伺うことができます。今回最初に訪問したのは、南三陸町の山側の隣町、登米市(とめ)の仮設住宅集会所。主に高齢のお母さんがたが、集まって復興グッズなどを作っています。この日は魚の鰈の形の、フェルトのコースターに刺繍をしていらっしゃいました。切り紙細工などもやっているそうです。

その横にお邪魔させて頂き、お話を伺います。「南三陸に帰ってもどうせ一人だし、このまま仮設の暮らしのほうが、スーパーも近くて、雪かきも玄関先だけで済んで、楽なの。」「お父さんは、波に持っていかれたの。」身内の方を亡くされた方から直接お話を聞くのは初めてだったのもあり、言葉に詰まってしまい、曖昧な反応になってしまいました。
皆さんと、郷土のおやつでお茶を頂いたあとは、南三陸の上山八幡宮の禰宜(宮司さんの補助役)を務める工藤真弓さんからもお話を伺う事ができました。工藤さんは、五行歌詩人でもあり、南三陸町のベイサイドアリーナにも、被災直後に書いた詩が飾られています。
工藤さんは復興まちづくり推進員もなさっていて、復興の状況についても話をしてくれました。既に高台移転を前提に復興の計画が進んでいますが、高齢の方に街づくりに対する関心やモチベーションを維持してもらう事の難しさを感じているそうです。
そんな中、津波に遭っても根が横に生えているので抜けにくく、塩害に強い椿のことをあるお年寄りが語ってくれて、町に戻ってみると、確かに自生している椿は波をかぶっていても震災の年も芽を出し、花をつけていた由。後世の人に伝えるために、津波が到達したところに椿を植えて、避難路を示すのはどうか?という計画が進み始めています。その際に、仮設住宅の高齢者の方にも、どこに椿を植えたらいいか、模型にピンを刺してもらうワークショップなどを行い、街づくりの疑似体験を通じて自分ごととして捉えてもらえるような試みをしているとのこと。
ちなみに椿は、長崎の五島が有名で、苗木などはその地の方々の協力を得られる予定だそうです。具体化したら、私も是非苗木をプレゼントしたいなぁ。椿の道が命を救う道になるんですものね。
工藤さん一家は皆さんご無事だったのですが、お宅は津波で流されはしなかったものの、家に、津波で流された他の家が突っ込んで、住めなくなったそうです。工藤さんには、ゆうすけ君という男の子がいて、被災後の日々の中で、子供の視点で被災をどう捉えていたかを話して下さったのですが、ハッとする言葉が幾つもありました。
例えば、家を取り壊した時、工藤さんが「瓦礫になっちゃったね」と言うと、「瓦礫って言わないで!ゆうすけのおうちって言って!」と叫んだり、南三陸町に車で入った時に、「壊れちゃったけど、あるよね、僕のふるさと」とポツリと言葉が出てきたり。
工藤さんはそう言われて、「ああ、そうだ。ここには海も山も空も変わらずにある。大人は目の前に見えるものに支配されて全て失った、と思ってしまうけれど、子供は本質を見ている」と感じた由。震災の体験や、ゆうすけ君の言葉を紡いだ紙芝居を最後にしてくれました。これは、絵本にもなっています。
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子供を家に残して買い物に出た先で地震に見舞われ、ドキドキしながら急いで帰宅して高台に避難した当日の様子や、自宅に戻った時の光景などが、優しいタッチの絵と五行歌を中心とした詩句で綴られています。涙は出るんだけど、希望も感じる内容です。
「震災がなければ出会うことはなかったかもしれない人と出会っている。皆さんもそうです。」という工藤さんの言葉。そうですね、確かに、震災がなかったら、南三陸町に来ることはなかったかもしれないし、仮に観光旅行で来たとしても、こういう形で出会うことは考えにくい。しかも1年の間に南三陸町に2度来ることはなかったかもしれない。これも縁なんですよね。
震災は多くのものを奪ったけれど、別の形で与えられたものもある。なんだか不思議な気持ちを抱えながら南三陸町の宿に向かいました。
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