◆お知らせ◆
舟遊びみづはウェブサイト
http://www.funaasobi-mizuha.jp/
茶色白抜きロゴ

◇Twitterアカウント◇
@riverboatmizuha

◇舟遊びみづは Facebookページ◇

舟遊びみづは Riverboat Mizuha



プロフィール

Miho Sato

Author:Miho Sato
「舟遊び みづは」運営主体の、株式会社フローティングライフ代表取締役。
江戸の人が遺してくれた東京の水辺は貴重な財産。数名で貸し切れて、江戸工芸に触れて楽しみながら、ゆったりと江戸の粋や情緒、名橋の数々を満喫できる舟遊びを提供します。
http://www.funaasobi-mizuha.jp/
ツイッターでもつぶやいてます:@mihobjm

カレンダー
10 | 2012/11 | 12
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -
最新トラックバック
検索フォーム
QRコード
QR
ブロとも申請フォーム

--月--日(--)

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
 
11月05日(月)

水害や公害を乗り越えて平穏な水域へ

過日、江東区内の旧中川や荒川周辺のウォーキングツアーに行きました。小名木川の東側や、旧中川の歴史をもう少し勉強して、ガイドネタを充実させないとね。

ツアーは都営新宿線の東大島駅からスタート。ここは、地下鉄の車両を搬入する口だそうです。白いカバーがかかっているところ。ここの地下が車庫にもなっているようです。搬入はめったにないそうですが、その日はどこからともなく鉄道マニアの人たちがわいて出てくるそうです。
写真 12-10-11 10 06 07

旧中川は、現在の荒川が明治~昭和にかけて開削されたことにより、分断されてしまった川です。墨田区の白髭神社近くの、木下川排水機場で上流が終わりになります。ちなみに現在の中川は、埼玉県の羽生から越谷を通り、葛飾区から江戸川区へ来て、東京湾に注いでいます。河口付近は、荒川と平行して流れています。

旧中川は、人工的に作ったものではありますが、石と草地をつかった護岸で、コンクリートむき出しではないのがよいところ。
写真 12-10-11 12 43 31

ここから小名木川に入り、近くの宝塔寺へ。ここには塩なめ地蔵というのがあり、お地蔵様の周りに沢山塩の袋が供えてあります。小名木川は、千葉県の行徳から安全に塩を運ぶ為に江戸時代の初めに開削された運河。塩商人がここにお参りをしたら、塩が完売するというご利益があったそうです。
写真 12-10-11 10 38 52

小名木川には江戸時代、蔵屋敷が立ち並んでいましたが、明治に入ってその跡地に化学肥料、小麦、砂糖などの工場が次々と出来ました。当時の物流はまだ舟運がメインだったので、川沿いのエリアは殖産興業にうってつけだったのです。また天然ガスも採れたので、これらによる地下水くみ上げで地盤沈下が進んでしまいました。最大で、約4.5メートルも沈んだそうです。

それにより水害の常襲地帯だったこのエリア、対策として現在は、排水機場から水を強制的に排出し、水位を-1メートルに保っています。それで、小名木川(扇橋閘門以東)、旧中川、北十間川、横十間川は、東京湾の潮の干満の影響を受けない、ほぼ水位が一定した水域となっています。そのため、水の流れもユルユルで、カヌーやカヤックなどの手漕ぎ船にはうってつけです。

ちょうど9~10月は、ハゼ釣りの季節。江東内部河川でも、ハゼ釣りをしている人がいます。
写真 12-10-11 10 52 15

塩の道橋からほど近い、上妙寺。ここは鬼子母神を祀っています。石碑には、お寺によくある書体で「南無妙法蓮華経」とありますが、この書体はヒゲ題目というそうで、仏様の衣の袖を表し、衆生を衣の下に集めて救うという意味があるそうです。お寺でよく見る書体ですが、初めて知りました。
写真 12-10-11 11 15 32 写真 12-10-11 11 18 21

さて荒川へ出てきました。明治43年の大水害がきっかけで始まった放水路開削の大工事、20年かかって22キロを掘り、昭和5年に完成したその川幅の広さに、これが人の成した事だという現実に、圧倒されます。
写真 12-10-11 11 28 19

因みに明治の大水害は、6月末~8月に37日も雨が降り、その間に台風も襲来した結果中川が決壊し、葛飾区や江東区が飲み込まれたそうです。

現在の荒川は、一日に約100隻の船が航行しています。そのうち3分の1はオイルタンカーだそうです。タンカー1隻でタンクローリー車約30台分のガソリンが運べるということで、これもモーダルシフトの一環だとか。
写真 12-10-11 11 42 08

さて、ツアーは終点の、大島小松川公園へ。この場所は旧中川に交差する、新川という川が昔は流れていました。ちょうどこの付近のようです。
写真 12-10-11 11 48 18

新川と荒川との水位差を調整していた、小松川閘門の遺構があります。
写真 12-10-11 11 47 26 

この閘門、大正14年(1925)に作られたもの。アールデコ建築ですね。今は、下部3分の2は土に埋まっています。当時の写真を見せてもらいましたが、閘門の閘室内に、和船がひしめき合っていて、活気を感じる風景でした。

この公園は、付近の化学品工場により六価クロムで汚染された土地を改良し、その上に土をかぶせて作られました。宅地開発によって汚染土が再び出てくるのを恐れたために、二度と掘り返されないよう、公共の施設にしているのだそうです。水害や公害に苦しみながら、やっと災害に強い、心和む水域を取り戻したこの地域の歴史。今はマンションが沢山建っていて、現在の姿からその苦難を想像するのは難しいですが、安心して暮らせる場所を勝ち取るまでの、長い歴史があったことを認識するよい機会となりました。
関連記事
スポンサーサイト
 
11月09日(金)

秋でも真冬支度の船の上

よく船では「夏でも冬支度」と言われます。暑いな~と思っていても、曇ったり、風が強かったり、体が水に濡れたりすると体が冷えるもので、急な天候の変化も考えて、服装の油断がないように、ということです。

11月に入って、船上の風がだんだん冷たく感じられるようになりました。お客様は30~70分程度のクルーズなので、ひざ掛け毛布など肌寒さをしのげますが、こちらは半日以上水の上で寒風にさらされます。ということで、見た目は紺のコットンのパンツに白いワイシャツですが、中はしっかり着ています。

ヒートテックという安価、スリムフィット、高機能の下着が出てくれたので大助かり。すでに長袖のヒートテックを2枚重ね着。足も、最近はレギンスなどという言葉でカムフラージュされていますが、ぶっちゃけ股引ですね。これももう履いています。そしてヒートテックのハイソックス。これでウィンドブレーカーを着れば結構暖かいです。

2,3年前までは、「絶対ババシャツなんか着ない!」とイキがっていたのに、今やヒートテック無しでは生きられない体になってしまいましたw。冷えは女性の大敵。更年期も近づき、ただでさえ体の変調を迎えているのに、カッコつけて無理をしてはネガティブな影響が、後々体に出そうですからね。

接客の上でも、自分の寒さには構っていられません。自分の体が寒くて固まっていると、船上でとっさに体が動かなかったり、お客様への笑顔もこわばってしまいます。寒さで紫色になった唇から「ありがどうございました~」と言われてもねぇ。。。

いちおうヒートテックの袖がワイシャツの袖口から見えないようにちょっと袖をまくったり、首に巻いたスカーフで丸首が見えたりしないように気をつけていますが、「秋でも真冬支度」の態勢です。これからもっと寒くなると、「東京でも北海道の冬支度」ぐらいな防寒になるのでしょう。カイロも欠かせなくなりそうです。

これを読んで船に来た方は、「そうかあ、股引履いてるんだ~」という想像はなさらないようにお願いします~(笑)そろそろ紅葉の始まる神田川の景色に集中してくださいね!
関連記事
 
11月16日(金)

お台場はなぜ「お」台場なのか?

お台場、と聞いて皆さんが想像するものはなんでしょう?
フジテレビ?ダイバーシティ?レインボーブリッジ?自由の女神?それともパレットタウンの観覧車かな?そもそもなぜ「お」台場なのでしょう?
レインボー2

先日、「最幕末期の江戸湾防備-品川お台場と越中島お台場」という江東区文化財講演会に行ってきました。船で隅田川を下り、レインボーブリッジをくぐると見えてくる石垣で囲まれた小島、お台場。その歴史を詳しく知る機会がなかなか無かったので、興味を惹かれました。今回は江東区の講演会ということで主役は越中島お台場だったのですが。
レインボー1

講師は品川区立品川歴史館の学芸員、冨川武史さん。当時の史料をあたりながら、お台場が作られた背景を聞きました。台場というのは砲台という意味。幕府によってつくられた御砲台ということで「お」台場と言われるようになった由。品川お台場は1853年のペリー来航を契機にその年から建設が開始されました。海上には11個のお台場が計画されたそうですが、完成したのは5個。第一~第三、第五、第六台場です。

第一と第五は今の品川埠頭の中に埋もれています。第二は撤去、第四は埋立地の一部になり、今の天王洲アイルになっています。レインボーブリッジのところに残っているのが第三、第六台場なんですね。第三台場は、公園になっていますが、昭和3年から公園として整備・開放されていたのだそうです。第六台場は立ち入り禁止の無人島なので、野鳥の楽園です。

現在、お台場と呼ばれるショッピング・レジャー施設やホテルのある場所は、正確には13号埋立地という名前。品川台場が残っていることから、ここをお台場と言っているわけですね。

さて、この日の主役の越中島お台場。場所は隅田川の支流にかかる相生橋の近く。この地図で四角い小さな港のようなものが見えますが、これは東京海洋大学の船を係留しているところ。この付近にあったと推定されるとのこと。

大きな地図で見る

越中島台場の建設は、ペリー来航から9年後、攘夷の風潮が高まる最中に起こった1862年の生麦事件が背景にあります。同じ年に、品川の英国公使館を長州藩が焼き討ちしたこともあり、対英関係が悪化し、海防策を強化する必要から、1863年から石の切り出しが伊豆で始まり、2年後に竣工したそうです。同時に、現在の浜御殿(今の浜離宮)、明石町(聖路加病院の近く)、佃島にも台場が完成した由。

とはいえ、この頃は既に幕府も終焉の時を迎えつつある時期。結局一度も実戦で使われることなく、明治新政府に各台場は接収されて終わりました。講師の方の論によれば、使用はされなかったが、1864年頃から、英国の日本侵略計画は進んでいたので、台場建設による日本の防衛の意志を示したことは、英国海軍に対する抑止力にはなっていた、とのことです。

今までよく見たことのなかった第三・第六台場。確かに台場の石積みをよく見ると、江戸城の石垣と同じように、きっちりと打ち込んであります。しかも海中工事ですから、船を使って、相当大掛かりに行ったと思われます。ついついレインボーブリッジに気を取られて、すぐそこにある幕末の遺産に注意を払うことがありませんでしたが、江戸の名残をそのままに伝える貴重なものだったんですね。作られた背景や他の台場がどうなったのかを知ったら、じっくり見たくなって来ました。第三台場の公園はいつも素通りでしたが、今度ゆっくり訪れてみることと致しましょう。
関連記事
 
11月17日(土)

夢を叶えてくれる造船所探し

基本設計がほぼ終わり、N先生から成果物が届きました。自分のイメージが概念図から配置図、パーツリストにまで落とし込まれています。構造計算や電気系統図など超文系の私には「???」のものもありますが、そこはプロにお任せするしかありません。操縦席やデッキなど少し変更したいところもあり、調整してもらいました。

船を作ったはいいけれど、置くところがなければどうにもなりません。車庫証明なしで車を買うようなものです。基本設計書が出来たことで、こんな外見のこんな大きさの船、と完成予想図を見せて、具体的に言えるようになったので、昨日は係留に関して正式に話をしに行きました。先方からはOKの回答で、ホッとしました。これも修業させてもらっている会社を通じたご縁あってこそ。本当にありがたいことです。面識もないままに、新規参入の私達がいきなり行ったら、信用してもらうのは難しかったと思います。

これで安心して造船所を決める段階に入れます。お願いしたい造船所に基本設計を見てもらって見積もり依頼です。いいな、と思うところでも他の船の建造などで納期が合わないとか、こちらの予算と大幅に乖離することもあるでしょう。まずは関東近辺からあたります。

私達の船のサイズだと、IHIとか今治造船等の大手とは全くご縁がありません。また、漁船専門で旅客船や遊覧船などを一度も作ったことが無いところも不安があります。例えばトラックとバスでは内装も部品も違うし、異なる性能が求められますよね。それと同じです。

良いご縁があるか?門前払いを食うか?造船所に行くのも初めてだし、バリバリ男社会で、なめられるんじゃないか?なんてビビリな事まで考えちゃったりして。特に私は、黙っているとおとなしそうに見えるらしく、第一印象でなめられる事が過去に何度もあって、カマシの利かない外見が恨めしいのです。コワモテにはほど遠いけど、こういう時はとーちゃんに頑張ってもらおうかな。

なーんて事をつらつら思いながらも、この船をどんな目的で何故造りたいのか、自分の熱意をもう一度頭の中で整理して、製造サイドにどうやって伝えるかに集中したいと思います。
関連記事
 
11月22日(木)

木遣りなう

10月に尺八ライブの記事を書きましたが、尺八奏者である松本さんから、木遣り教室を立ち上げるお話を聞き、夫婦で参加することにしました。「継声会」というグループで、地元の鳶頭、福島俊男さんが教えてくださいます。御年87歳、私達は「かしら」と呼ぶことにしました。

木遣り、家の新築の際など、棟上の時に歌われるのを聞いたことのある方がいるかもしれません。出初式や、お祭りの始まりや締め、結婚式の時に呼ばれることもあるようです。元々は、ワークソング。森から木を切り出して大勢で運ぶとき、息を合わせるのに使われたのが始まりのようです。江戸木遣りは、江戸の火消し(=鳶)が中心となって伝承され、ワークソングだけではなく、東海道五十三次(駅路という曲)を歌ったり、小唄や都都逸のような歌詞もあり、江戸の町人文化を反映するようになったのだそうです。

兄木遣りという、いわゆるソロのメインヴォーカルが音頭を取り、弟木遣り或いは側受(がわうけ)というグループが後に続く、というのの繰り返しで、いわゆるコール&レスポンスの手法で歌われます。節回しが聞かせどころだそうで、その点は民謡に近いところもありますね。

楽譜がないので、口伝です。独特の節回しや音の上下に、1回目は全然音が取れず、自信の無さから声も出ませんでしたが、何度も繰り返し歌ううちに、少しずつ声が出てきました。木遣りは必ず「真鶴」という歌を最初に歌って始めます。
「よーおーおーおい やるよ~」
「え~え~ よーお~」
という短いものですが、音の伸ばし方、息の継ぎ方、音程や節回しなど、これだけでもそれらしく聞かせるには相当練習がいります。

これは三社祭の宮入の際に、「真鶴」を歌って一本締め、というシーン。


かしらは、朗々と歌い上げ、聴いていて惚れ惚れします。コブシは民謡よりもさっぱりした回し方で、その加減が江戸の粋なのかもしれません。我々はまだまだ遠い、遠い道のりですが、小学校6年生の女の子、Aちゃんはさすがに覚えが早く、声もキレイに出ていて成長株というところです。

まだ入門の入門というところですが、皆で声を出していると気持ちが良くて、これから少しずつ色々な木遣りを覚えて、船のお披露目の時などに歌えたらいいなぁ、と思っています。民謡好きのとーちゃんは特に気合が入っているようですしね(笑)。
関連記事
 
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。